聖書のみことば
2023年8月
  8月6日 8月13日 8月20日 8月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

8月20日主日礼拝音声

 保護される命
2023年8月第3主日礼拝 8月20日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/出エジプト記 第20章13節

<13節>殺してはならない。

 ただ今、出エジプト記20章13節をお聞きしました。
 ここには「殺してはならない」とあります。「殺すな、あなたは殺してはならない」と言われています。ということは「あなたがたは、生きるようにしなさい」と言われているのでしょうか。そのとおりです。しかし、そんなことは当たり前のことではないでしょうか。
 ところが、その当たり前のはずのことが、今日、私たちの世界ではもはや当たり前のことではなくなっているかもしれません。これは大変気になることです。テレビでは毎日新しい人殺しのニュースが流されますし、ウクライナでの侵略戦争も、もう一年半近く続いています。そこでは毎日1,000人以上の人たちが傷ついたり殺されたりしていると報道されています。
 生命が現実に奪われたり失われたりすることが起きているだけではありません。私たちの日常においても、当たり前の生活を営んでいるように外側からは見えているところでも、生活の内部では疲労が重くのしかかってきていて、多くの人たちが憂うつさや息苦しさを感じています。私たちの間では、命の営みに対する輝くような喜びが次第次第に薄らいできていて、生きることが時に苦しかったり重荷と感じられるような場面も少なくないのです。

 けれども、たとえ私たちの抱える人生、現状がどのようであるとしても、今日、私たちはここで聖書から呼びかけられています。神御自身は私たちそれぞれの命の営み、私たちが「生きてゆく」ということをこよなく愛し、望んでおられるのです。
 私たちは毎週教会に導かれ、聖書を開いてそこに語られている御言に触れます。聖書の言葉を聞いて活き活きとした感動に浸ることができるのは、まさに聖書が全体として、どこを開く時にも、究極的には神が私たちの命を肯定して「生きるように」と呼びかけてくださる、その証しの言葉に満ちているからではないでしょうか。聖書については昔から言われてきたように、神から私たちに向けての愛の手紙です。私たち造られた者たちに宛てて「あなたは生きて良いのだ」と語りかけてくださる愛の手紙なのです。地上の現実がどうであっても、神は私たちの命を肯定なさいます。しかしそれは、たまたま気が向いてそうなさるというのではありません。ある時は気が向いて私たちの命を肯定して下さるけれども、また別の時には気が進まなくなって、私たちを突き離したり、私たちの命と人生に対して冷めた態度をお取りになるというのではありません。神はいつでも私たちの命を思いやり、慮って下さり、それを何とかして支えようとしてくださいます。
 そして、そこには理由があります。それは、私たちの命がもともと神のものだからです。神は他ならない私たちの造り主であり、命を与えてくださった命の源であられる方です。そうであれば、造り主であられる方が、お造りになった者の命を拒否なさるはずはないのです。まことの父が我が子を嫌なものとして遠ざけるような考え方は、道理に適いません。神は慈しみに満ちた真実な父なる方として、私たち人間を常に愛してくださいます。神がどんなに深く、配慮をもって私たちを愛して下さるかということは、創世記1章の天地創造の記事の中で、人間が6日目に造られたことからも分かります。
 神は天地創造の際に、最初に光をお造りになり、光と闇が交互することによって日が生まれ、時間が生まれました。2日目には大空を上と下に分けて空間をお造りになりました。その造られた時空の中に、人間が生きてゆくことができるように大地が造られ、海の中には魚が、空には鳥が、また陸には葉を茂らせ果樹をつけ食料となる植物や、地の獣、這う物などの一切が造られ満ちるようになりました。そのようにこの世界をすべてお造りになり、準備なさった上で、最後に神は御自身に形どって人間を造り、生きる者として下さいました。創造の6日目に人間が造られた時には、既にこの世界は一通りすべてが揃えられていて、人間がそこを生きてゆけるような準備が整っていたのです。神は人間が生きて行ける場所を備えてくださった上で、そこに人間を造り、置いてくださいました。そしてこの世界の中で、世界と共に生きてゆくように、私たち一人ひとりを生まれさせ、今も一人ひとりを支え、「生きるように」と持ち運んで下さるのです。

 そうであるならば、どうして神が私たちの命を軽んじるでしょうか。神は、私たちが生きることを望んでおられます。しかもそれは十把一絡げに生きて欲しいというのではなく、一人ひとりがそれぞれに、その人らしく生きることを望んでくださるのです。今10年生きている人、20年生きている人、40年生きている人、60年生きている人、80年以上を生きている人、それは神がそのように望んでくださって、生かされて生きているのです。私たちの人生の内側には、まるで木の年輪のように、その人の生きてきた人生のしるしが刻み込まれていきます。人生は決して一本調子ではありません。木の年輪が暖かな気候の時と厳しい冬が繰り返すことによって刻まれ育ってゆくように、私たち一人ひとりの人生もまた、その人らしい人生の記憶が刻まれたものとして、今日ここにあります。楽しいことや喜ばしいことばかりではなく、辛く厳しい出来事の記憶もまた、私たちそれぞれの人生の内側に刻まれているでしょう。しかしそれらはすべて、私たち一人ひとりを確かに自分として支えてくれる、かけがえのない記憶です。木の年輪で言えば、柔らかく育ちやすかった場所だけではなく、冬の間の硬く締まった部分があってこそ、木は高く立っていきます。楽しく嬉しいだけでは、私たちの人生は深まりもせず、強さも生まれません。私たちは一人ひとりに皆違う、その人自身の人生を贈り物として与えられていて、しかも今日を生きることができるようにと、神から強さと力を与えられて立っています。そして私たちは、皆それぞれに贈られ与えられている人生を持ち寄って、「共に生きるように」されているのです。
 ですから、自分一人きりの人生の記憶の中では辛く忌わしい思い出であっても、その経験が、却って隣人に対して温かく接したり、助けを与えるよすがとされる場合があります。私たちの人生、私たちの命は、決して自分一人だけのものではありません。隣人たちと共に、皆がお互いに助け合い支え合い、杖となり合うようにして生きる命を、一人ひとりが与えられていることを知らなくてはなりません。

 そもそも「命」が何であるかということは、「神が造り主としていてくださる」という事実を抜きにするなら理解できないでしょう。私たち人間の間だけで、「一体、命とは何か」と問うて考えてみても、そこには十分な答えは出せないと思います。せいぜいのところ、私たちはどれくらい長く生きられたかとか、どのように生きたかということをあれこれと言える程度です。命そのものが何かと問うことは、私たちの経験の範囲内で決めたり、判断したりはできないことなのです。
 たとえば、私は若い時分、医師の見立てによれば、入院するかあるいは十分な休養をとり、看護が受けられなければ命の保障はできないと言われる険しい瞬間を過ごしたことがあります。その時には、自分が今一番死に近いところまで行って、死の淵を覗き込んだような気分でいました。ところが、これは大変印象的な出来事なのですが、私が医師からそのような診断と治療を受けていたその同じ日に、私の通っていた大学では重大な事故で29名の人々が実際に亡くなるという事件が起きていたのでした。それまで私は、命というものは自分の持ち物の一部で、自分がそれをぞんざいに扱って手放そうとすれば手放せると思っていたのです。ところが実際には、命の長さを支配しておられるのは人間ではなく、人間を超える方であることを、つくづくと思わされました。私とすれば死の淵まで行って、その底が見えないと思いながら覗いていたような気分だったのですが、その頭ごしに、急に多くの学友たちが「お先に」と言って死の中に飛び込んでいったような、そういう経験をしました。そして、どんなに大変に思える時を過ごすとしても、神が「もう良い」とおっしゃる時までは、この地上に置かれて生きてゆくのが人間の命なのだということをしみじみと思わされています。

 命は、私たちが自分で自由にできる持ち物ではなく、見えざる御手によって私たちに与えられている不思議な贈り物です。私たちの一日一日は、この命の造り主である方によって支えられていくのです。そして私たちの命は、取り去られる時にも、私たちの思いどおりに取り去られるのではありません。私たちに命を与えてくださった方が、私たちのもとから「もう良い」と言って取り去られるのです。
 このようなことは、ヨブ記1章21節に「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と言われている通りです。ヨブは自分の辛い経験からこのようなことを教えられたのですが、私たちは与えられた命を生かされていながら、それでいて、命が神からの贈り物であることにほとんど気づきません。命は生まれた時から自分と共にあるので、まるで自分の持ち物であるかのように錯覚しています。そのために、私たちの身近で若くして自分から命を絶ったと思えるような事例に会うと、まるでそれが本人の責任や決断において生じたことであるかのように感じられて、つい責めたい衝動に駆られてしまう場合があります。ヨブ記に出てくるヨブもまた、期待をかけていた息子たち娘たちを失う辛い思いを経験しました。「何故、事故に遭うような不用意な場所で宴会を開いたのかと」と責めたくなる思いに駆られたかも知れません。しかし命は造り主からの不思議な贈り物で、主が与えてくださり、また主の許に取り戻されるものなのだということを、ヨブは人間的には辛い思いをしましたが、その経験を通してしみじみと思い知らされたのでした。
 後にヨブ自身が深刻な病気になり、すっかり衰えてしまった時、その様子を見た妻がヨブの災難をそれ以上見られなくなり、「神を呪って死ぬ方がましでしょう」と口をすべらした時、ヨブはそれに同意しませんでした。大変な中でも、なお「生きるのだ」という強さを与えられます。それは、子どもたちの死という辛い経験を通してヨブに与えられた粘り強さです。もしヨブにこのような経験がなく、自分一人だけが辛いのだと思ったなら、自分の命に価値を見出せないと思ったり、妻の言葉にも同意したかもしれません。けれども、ヨブにとっては忌まわしい思い出でしかなくても、それが却ってヨブを支え、また神の御業に用いられる出来事であったことをヨブは知らされ、ヨブ記は全体として、辛い出来事にも意味があることを伝えています。
 命を与え、命を奪うということは、あくまでも造り主である神御自身だけが持っておられる特別な権限です。人間はこれに触れることができません。神がお与えになったものを、他の人が奪うことは許されていないのです。

 しかし、このように命の事柄を考えてきますと、私たちはなお考え込まざるを得なくなるのではないでしょうか。人間に命を自由にする権限がないのならば、私たちが日毎に見聞きしている殺人事件や戦争の出来事を一体どう考えたら良いのでしょうか。そこで流される血、失われる命も、神の御心なのでしょうか。それとも殺人事件や戦争は、神の無力さを表す出来事なのでしょうか。
 私たちが生きるということに逆らう殺人や戦争が現実にあることを考えるためには、そもそも殺人がどこでどのように始まったかを、聖書から思い起こすのが良いように思います。聖書の中でも殺人事件は起こるのですが、最初の殺人は創世記4章で起こっています。それは兄弟殺しでした。カインが自分の血を分けた弟のアベルを殺してしまいます。ちょうど、民族的には大変近しい国同士が争い殺し合うように、聖書の中で最初に語られている殺人も、兄弟を殺すという出来事でした。
 創世記3章で最初の人アダムとエバが、神の御心に従うよりも自分の思いと考えを優先してしまい、神抜きで生きるという罪を犯し、その中で人生を歩み始めました。その結果は、最初は神に対する裏切りだけであったのに、その罪を神に問われたとき、アダムは「あなたが一緒にしてくれたあの女が、わたしをそそのかした」とエバのせいにしたため、人間同士の間にも亀裂が生じました。これが人間の堕罪と呼ばれる出来事ですが、兄弟殺しは、この直後に起きています。戦争も殺人も、神の御心において起っていることではなくて、人間の勝手な思いから生じることです。
 神はアベルの死を防げなかったのでしょうか。神はカインに対して無力だったのでしょうか。カインがアベルを殺した直後のところで、神は直ちにカインに対して「お前の弟アベルはどこにいるのか」とお尋ねになりました。創世記4章8節9節に「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。主はカインに言われた。『お前の弟アベルは、どこにいるのか。』カインは答えた。『知りません。わたしは弟の番人でしょうか。』」とあります。
 カインがアベルを殺すことを神は妨げなかったということは、言えるかもしれません。しかしそれは、神が無力であるということではありません。最初の人アダムとエバが罪を犯した出来事の時にも、神は、その成り行きを黙って見ておられました。それはどうしてかと言うと、人間に自由を与え、人間が真実に自由に、神のものとして生きるようにしてくださっているからです。もちろん神は、園の中央に善悪を知る木を植えずに、決して人間が神に背くことができないようにすることもお出来になったはずです。しかしわざわざ木が植えられていたのは、神に逆らう可能性があっても、人間が自由に神に従って生きる、そのような生き方を選び取らせるためでした。
 カインに対しても、神は警告しておられました。神がアベルの献げ物に目を留め、カインの献げ物には目を留められなかったとき、激しく怒ったカインに、神は「どうして顔を地に伏せるのか。あなたが正しいのならば、顔を上げられるはずだ。しかしもし上げられなのなら、罪があなたを慕い求めている。だからあなたは気をつけてそれを治めなければならない」と語りかけてくださっています。けれどもカインはアベルを殺してしまい、その直後に、「お前の弟アベルはどこにいるのか」と、神から尋ねられました。人間の血が流されるところでは、必ずその出来事から発せられる叫びがあります。土の中から、神に向かって呼ばわる声が聞こえてきます。そして神は、殺人を犯した者、過ちを犯した者に呼びかけられます。それは、過ちを犯した人間がどんなにごまかそうとしても止むことはありません。血を流した人は、自分の犯した過ちを神の前に正直に認めて罪を表し、悔い改めるまで、ずっとその罪を問われ続けながら生きることになります。神はそのように、私たちに関わっておられるのです。

 私たちが「生きよ」と命じられているのは、自分一人が自分に都合よく生きていれば良いということではありません。私たちそれぞれに与えられている強さや優しさをもって、隣人と共に生きる、皆で一緒に生きていくために、私たちは生かされています。そして、そのように生きることをこそ、神は望んでくださるのです。
 私たちが殺されてしまうことを神はお望みにならず、また、私たちが犯した罪を悔い改めて御前に生きるようになることをこそ、神は望んでおられることを覚えたいと思います。お祈りを捧げましょう。

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